1971年(昭和46)に特急の昼間の運転増発に伴い新造された3000系特急車。3000系に人気が集まったため1973年(昭和48)までに58両(6両編成5本と7両編成4本)が新造され、1900系を置き換えた。冷房を搭載、そして伝統のテレビカーはカラーとなり、京都方先頭車3500形につけられた。また車端部を除きオール転換クロスシートでさらに終端駅での入れ替えに際して、自動で座席を転換できる世界初の自動座席転換装置も搭載された。3000系は当初1900系との混結運転も考慮されブレーキ装置などが1次車と全電気指令式ブレーキを採用した2次車以降とは異なっていたが、のちに改造された。また60Km以上では5Kmの小刻みの定速運転ができるようになり、マスコンハンドルも前後に操作できた。長年京阪間の「クイーン」として君臨したが、1989年(平成元年)10月の鴨東線開業による特急車予備編成確保の観点から8000系8001Fが新造、また特急全列車が7連化されるのにともない6連の3000系には8550形を入れての形容となり、1989年12月以降3000系は幌撤去、末尾偶数番の3500形先頭車の車掌台に電話室設置や8000系に色を合わせた塗装の塗り直しをした。なおその頃に画像はこちら(1994年1月、八幡市〜淀間にて)(一部未改造のまま引退した車両もあり)奇しくも3000系が1900系を特急から置き換えたように8000系が新造、3000系は廃車されていった。8000系10編成が揃った時点で特急車予備車確保の観点から3505F7連と一部予備車2両の9両が残され、1995年(平成7)に8000系に合わせた更新工事が施工され、うち1両が今や京阪特急の代名詞ともなっているダブルデッカーに大改造し、12月25日にデビューした。その時の画像はこちら(画像は1995年12月、八幡市〜淀間にて)1997年(平成9)9月〜10月と1998年(平成10)4〜5月に8000系がダブルデッカーを組み入れ8連化されたが、3505Fも残っていた3005Fと3506Fをつなぎあわせた3655を連結し8連化を1998年3月にし、ダブルデッカーの連結位置も8000系にあわせた。2008年(平成20)10月の中之島線開業に伴い、快速急行用新3000系が新造されるのに伴い、3505Fは番号が重複するために新3000系の新製試運転の直前に8000系に改番され、8531Fを名乗ることとなった。2009年(平成21)以降8000系に車端部ロングシート化をはじめとする新3000系に準じた更新工事が行われていったが、8531Fは工事対象外となり、8000系の更新工事が終わったあとの2013年(平成25)3月に引退した。なお一部先頭車は富山地方鉄道と大井川鐡道に譲渡され、富山地方鉄道では10030系として活躍、当初2編成4両が京阪特急色のままで活躍、のちに全車富山地方鉄道のカラーに変更されていたが、2012年(平成24)に10033-10034が京阪特急色に復元、さらに2013年8月からは同編成に2013年3月に引退した8531Fに組み込まれていた8831が譲渡され「31」として連結、「ダブルデッカーエクスプレス」として特急運用などについている。大井川鐡道の3000系は京阪時代のまま3507-3008として運転、2012年末にはそれまで隠していた”鳩マーク”を3507側に復活させたが、運用の見直しなどの理由で2014年(平成26)2月に引退した。

8531
3000系

260形

その他(廃形式)

3000系→8000系8531F

昭和38年(1963)の淀屋橋開通時の特急車としてデビュー、旧1810系からの編入車もあり、昭和49年(1974)までに特急車としての座を旧3000系に譲り、通勤色化や3扉化と昇圧準備工事が行われた。その後、昭和61年(1986)より更新工事(クーラー取り付けや8M1C化)が行われ、画像のスタイルとなった。工事後は7連と5連、4連とされたが、すべて5連化され、また先頭車の不足から1両のみ旧1810系からの編入車が先頭車となり(1914F)角型のヘッドライトとなり、異彩を放った。平成15年(2003)4月には淀屋橋開通40周年を記念して、1919Fに特急色に復元し翌年3月まで運転された。また平成12年(2000)からは運用離脱→廃車が発生、平成18年(2006)には1919Fと1929Fを除きすべて廃車になった。この時「FAREWELL 1900系」の副標識が付けられたのは記憶に新しい。最後の2編成は1929Fが平成18年(2006)7月からは特急色となり、1919Fとともに翌平成19年(2007)12月までデビュー50周年(旧1810系が該当)の副標識をつけて運転された。平成20年(2008)10月の中之島線開業の前日に定期運用から離脱、10月には「さようなら、ありがとう。1900系」の副標識をつけて運転。12月にはさよなら運転を実施、12月末で廃車、昭和63年(1988)の2代目1800系以来の本線の廃形式となった。

1900系

大津線用の電動貨車122。保線用道具やバラストをつんで運転されていた。こちらも260形の一部と同じブリル26の台車をはいていた。1997年に廃車
1997年8月、三条付近にて

電動貨車122

石坂線用だった350形。こちらの台車も古く、琵琶湖鉄道汽船時の台車があった。
廃止後は356-357が浜大津構内で81-82とともに留置されていたが、解体された。
1997年6月、浜大津〜三井寺間にて

350形

大津線近代化に寄与した260形。デビュー時は特急色を纏い急行や準急で運転。600形や700形ができてからは石坂線メインに活躍した。中には京阪開業当初の台車、ブリル26をはいた車両もいたが、1997年10月に80形とともに廃車となった。
1997年10月11日、東山三条付近にて

ここでは廃形式になった車両をアップしました。

5000系

鋼索線1・2

貨車111

80形

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高度経済成長期、ラッシュ輸送は限界に達していて当時の電圧600Vでは増発増結も不可能なことから、これを解決するために開発されたのが5枚扉をもつ5000系である。1970年(昭和45)12月にデビューした。1両につき5枚扉は世界初でラッシュ時は5扉すべて開閉し、ラッシュ終了後は3枚扉とし2枚の扉は締め切りとした上で天井に収納されている座席がおろされるユニークな車両となった。また軽量化のために京阪初のアルミ合金での製造となった。1980年(昭和55)までに合計7編成49両が製造された。第二編成5002までは4+3の編成であったが5553F〜5557Fでは固定7両編成となり、5001Fと5002F以降では標識灯が1灯から2灯に変更、また先頭のひさしの形状が異なっていた。5555Fからは先頭に行先表示幕の取付に5557Fでは冷房のマイコン制御装置が世界初としてつけられた。1980(昭和55)枚方市〜御殿山間の置き石脱線事故により5554は再製造された。
1997年(平成9)より5553Fを皮切りに7200系に準じた更新工事がなされ中間T車の5850形が5650形に変更され、5001Fと5002Fは組成変更がされ、5000形は5100形に編入され5650形とともに運転台が撤去された。2008年(平成20)11月出場の5557Fから塗装変更開始、そして2016年の5557Fを皮切りに廃車が開始、2021年(令和3)9月に5551Fが運用離脱をして5000系は消滅した。なお5551Fの先頭部のみ3505Fとともに2023年(令和5)4月からくずはモールSANZEN広場にてデビュー時の姿に復元され保存展示がされている

2001年の男山ケーブルリニューアルで廃車となった。昭和30(1955)日立製でずっと運転されていた。
1993年12月、鋼索線1の車内より

試運転の項目で触れたが、貨車111も2000年末で廃車となり解体された。画像は事実上の廃車回送
1999年3月、枚方公園にて

80形

満開の蹴上の桜のそばをゆく81-82。1997年10,月11日京津線京津三条〜御陵間の廃止とともに運命をともにした。それまでは三条〜四宮間普通をメインに活躍した。現在81は先頭部のみが錦織車庫に82は1両まるまる一個人の手で保管されている。
1995年4月、蹴上にて

260形
350形
電動貨車122
貨車111
鋼索線旧1・2
1900系
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